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第14話 結婚前の名前で呼ばれた

last update Tanggal publikasi: 2026-08-23 18:50:01

「この方の店は、私のものです」

 食卓が静まり返った。

 糀も、すぐには意味が分からなかった。

 祖母の店――澄乃。

 あの古い店が、どうして神楽坂煌のものになるのだろう。

「何を言ってるんだ」

 修司が先に声を荒らげた。

「あれは糀の祖母の店だ。だからこっちで話をしている」

「その話を、今ここで進めることはできません」

「できる。専門家には確認してある」

 修司は譲渡同意書を掴んだ。

「糀が書けば、移転手続きは進む」

「いいえ」

 煌の声は変わらなかった。

 内ポケットから封筒を取り出し、中の書類を一枚だけ食卓に置く。

「三浦澄江さんと神楽坂家の間に覚書があります。条件が満たされるまで、あの店を瀬川家へ移すことはできません」

「覚書?」

 糀は思わず聞き返した。

 三浦澄江。

 祖母の名前だった。

 書類の上にも、その名前が印字されている。

「そんな昔の覚書が、今も有効なの?」

 美咲が唇を尖らせた。

「条件が何か知らないけど、おばあさんはもう亡くなってるんでしょう。今さら昔の約束なんて関係
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    「はい」 煌が答えた。 たった一言なのに、糀の目に涙がにじんだ。 煌の指が、絡めていた手をゆっくり返した。親指が、糀の左手首に触れる。「この火傷も、覚えていたんですか」「忘れたことはありません」 あの日、糀は塩むすびと味噌汁を一緒に運ぼうとした。椀が傾き、左手首に熱い汁がかかった。 痛くて泣いた。祖母がすぐに水で冷やし、冷たい布を巻いてくれた。「今日はもう、奥で休んでいなさい」「でも、あの子はまだ何も食べてない」 糀は塩むすびを持って男の子のところへ戻った。半分に割り、自分が先に食べてから差し出した。 糀も、あの日を忘れたことはない。 けれど、それ以降、男の子は店へ来なくなった。「私が火傷をして、騒ぎになったから来なくなったんですか」「そうではありません」「でも――」 煌の人差し指が、糀の唇へそっと触れた。 煌は指を触れたまま、首を横に振った。「今は、勝負に集中しましょう」「最初から、私だと知っていたんですか」「はい。動画の声と、その傷で分かりました」 糀は左手首へ触れている親指を見つめた。「どうして、今まで言わなかったんですか」 煌はすぐには答えなかった。「あなたを傷つけるのが、怖かった」「私を、ですか?」「……はい」「どうして、それで私が傷つくんですか」 煌は答えなかった。左手首に置かれた親指だけが、わずかに動いた。「あっくんは、私の初恋でした」 絡んだ指が止まった。 煌は糀の左手を持ち上げた。 火傷跡へ、柔らかいものが触れる。 唇だと分かった瞬間、糀は息を止めた。傷はもう痛くないのに、触れられたところから熱くなった。 幼いあっくんには、こんなふうに触れられたことはない。 手首に残る唇の感触だけで、心臓が落ち着かなくなった。「初恋は、過去のことですか」 低い声だった。 糀は答えられなかった。 婚約は、まだ終わっていない。抱きしめてほしいと頼んでいい相手ではない。 そう思うのに、離れた布団へ戻る方がつらかった。「抱きしめてもらってもいいですか」 煌はしばらく動かなかった。「……本当に、いいんですか」「はい」 衣擦れの音がした。煌が自分の布団を出て、糀のそばへ来る。 起き上がった糀の背中へ腕が回った。もう片方の腕も腰へ回り、強く抱き寄せられる。 思っていたよりも、ずっと強

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     戸を閉めた途端、恥ずかしさが込み上げた。  少しだけ残念だったなんて、どうして本人へ言ってしまったのだろう。  煌がどんな顔をしていたのかも、怖くて確かめられなかった。  糀は熱くなった顔を冷まそうと、窓を少し開けた。山の夜気が入ってくる。遠くで水の流れる音がしていた。  明日は四時に起きなければならない。  浴衣へ着替え、布団に入ろうとした時だった。  カチ、と小さな音がした。  糀は振り返った。  誰もいない。窓の外にも、人影はなかった。  古い宿なのだから、木が鳴っただけかもしれない。  そう思って明かりを消すと、今度は天井の近くで、何かを引っかくような音がした。  店の棚の裏から見つかった機器を思い出した。  自分では気づかないまま、料理も会話も撮られていた。今も、見えない場所に何かが置かれていたら。  糀はもう一度明かりをつけた。  天井、照明、テレビの横。目に入るものを一つずつ確かめたが、何も見つからない。  また、カチ、と鳴った。  もう一人で調べる気にはなれなかった。  煌の部屋へ行こうとして、足が止まった。  煌には、まだ婚約者がいる。こんな時間に部屋を訪ね、また二人でいるところを撮られたら、今度は何を書かれるか分からない。  けれど、部屋のどこかから、また小さな音がした。  糀は部屋を出て、隣の戸を叩いた。 「はい」  すぐに戸が開いた。  煌は上着を脱ぎ、ネクタイも外していた。白いシャツの襟元が少し開き、いつもはきちんと整っている髪が少し乱れ、前髪がいつもより無造作に額へかかっている。  仕事中とは違う姿に、胸がどきりとした。こんな時なのに、目を逸らせなかった。 「どうしました」 「あの、部屋で、変な音がして」  声にすると、急に子どもじみて聞こえた。 「古い宿ですから、ただの物音だと思うんです。でも、店のことを思い出してしまって」  煌の顔から、先ほどまでの柔らかさが消えた。  糀の部屋へ入ると、照明や天井を確かめ、すぐに警備担当者を呼んだ。  十分ほど調べても、撮影機器も録音機器も見つからなかった。窓や戸にも、誰かが入った跡はない。  女将は申し訳なさそうに頭を下げた。 「夜になると、古い配管が鳴ることがあるんです。天井の音は、屋根に触れた木の枝かもしれません」  やは

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    「別の部屋なら、いいです」  思っていたより早く、返事が出た。  煌を意識しすぎているようで、恥ずかしくなったが、煌は少しだけ表情を緩めた。 「もちろんです」 「ありがとうございます」 「何より大事なことですから」  一時間後、糀は店の前に止まった車へ乗った。  着替えは一組だけ。汚れてもいい靴と、料理ノート。三回分の試作記録も鞄へ入れた。  服は動きやすければ何でもいいと思っていたのに、鏡の前で紺色と白のニットを二度も合わせ、結局、顔が明るく見えた白を選んだ。  黒い車が走り出す。後ろから、警備の車が一台ついてきた。 「出張なのに、警備まで必要なんですか」 「九条は、私たちより先に牧場へ連絡していました」  煌はそれ以上言わなかった。  玲奈の一言で客を失い、店を閉めた料理人もいる。  しかも、玲奈のそばにいた女性は、糀の店へ撮影と録音のできる機器を仕掛けていた。  勝負の日までに、あと何をされるのだろう。  そう考えると、少し怖くなった。  糀は、もう警備は必要ないとは言えなかった。  街の明かりが少なくなり、窓の外が暗くなっていく。 「牧場へ行った時のこと、本当に覚えていないんですか」 「景色は、ほとんど」  煌は窓の外を見たまま答えた。 「濡れた草の匂いと、牛舎の柵が冷たかったことだけは覚えています」 「祖母のことは?」  しばらく返事がなかった。 「食べられない子を、好き嫌いで片づけないで、と」  煌の声が低くなった。 「誰に言ったのかは覚えていません。祖父か、牧場の方か。ただ、何も食べられない私を、澄江さんがかばってくれたことだけは覚えています」  祖母らしい言葉だった。  料理を残す子を叱る前に、なぜ食べられないのかを考える人だった。 「おばあちゃんは、煌さんに食べてもらえる肉を探していたんでしょうか」  煌は驚いたように糀を見た。 「それは、考えたこともありませんでした」  煌はずっと、祖母の味を探していた。  けれど祖母も、幼い煌が食べられる味を探していたのかもしれない。  しばらく黙ってから、窓の外へ目を戻した。 「もし、そうなら、私は知りたい」  九条に勝つことは大事だ。  けれど今は、それだけのために牧場へ向かっている気がしなかった。  車が山道へ入る前に、休憩の

  • 『ママのご飯は古臭いからいらない』と家族に捨てられた発酵食インフルエンサー、なぜか偏食CEOに溺愛されています   第94話 宿泊で予約を取っても?

    「提案……ですか?」 「はい。勝負までは、二人で料理に集中しませんか」 「……二人で?」 すぐには頷けなかった。煌と二人で、と聞けば、まだ終わっていない婚約のことを思わずにはいられない。 けれど、ここ数日は料理を考えようとしても、美咲や玲奈のことが頭から離れなかった。料理ノートは開いたまま、何も書き足せていない。「証拠は私が守ります。料理の答えも、一緒に探します」 煌が、カウンターに置かれた料理ノートへ目を落とした。「あなたの料理を守りたいんです」 婚約を隠していたことは、まだ許せない。それでも今は、美咲や玲奈ではなく、食べてくれる人のことを考えたかった。「分かりました。そうします」 煌は力強く頷いた。「勝負の料理は、もう試作しましたか」 「三回です」 玲奈に祖母の紙を見せられたあと、糀は店を閉めてから、少量の和牛で条件を変えて試していた。「一回目は、若味噌六、古味噌四で四十八時間。二回目は古味噌を減らして、三回目は漬ける時間を短くしました」 「結果は?」 「一回目は味噌が強すぎて、肉の味が消えました。二回目は味がぼやけて、三回目は肉が硬いままでした」 「原因は?」 「配合と時間だけではないと思います。……肉かもしれません」 九条が持っているのは、祖母が失敗した途中の配合だ。棚の裏の機器で、店の中の会話や試作も盗まれたかもしれない。 けれど、同じ配合でも、肉の脂や水分が違えば、麹の働き方は変わる。 糀は祖母が残した仕入れ帳を開き、和牛の試作頁と同じ年の仕入れを追った。「あ……」 祖母も、最初の三回は、いつもの仕入れ先の肉を使っていた。だが、三つ目の失敗印のあと、山あいにある峯岸牧場へ仕入れ先を変えている。 その肉を使った次の頁には、失敗印がなかった。 代わりに、祖母の字で《もう少し》と書かれていた。 祖母がこの牧場を選んだ理由を知る必要があった。 今も同じ場所に牧場がある。糀はすぐに電話をかけた。「三浦澄江の孫です。祖母が昔、そちらから和牛を仕入れていたようで――」 「その話なら断る」 年配の男性は、糀が最後まで話す前に言った。「昨日も九条ホテルから電話が来た。今度は孫か。澄江さんの名前を出せば、誰にでも昔のことを話すと思うな」 九条は、もうここにも先回りしている。「本当に孫です。店も私が受け継いで

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